鎌倉殿を支えた13人の重臣
13人の重臣について
治承4年(1180)、源頼朝は平家打倒の兵を挙げます。そのはじまりは、僅かな兵からなる「反乱軍」でしたが、勢力は瞬く間に膨れあがり、新たな武士の政権「鎌倉幕府」を創り上げていきました。
頼朝のもとには、東国武士をはじめとする源氏の家人、平家の治世に反意を持つ人々、頼朝の妻や母・乳母ゆかりの人々、京都から新天地を求めてやってきた貴族など、様々な人が集いました。彼らは自らの主の意を込めて、頼朝を「鎌倉殿」と呼びます。
頼朝の死後、息子頼家が鎌倉殿を継承しますが、その地位は決して安定したものではありませんでした。この鎌倉殿を支える存在として選ばれたのが、北条義時をはじめとする13人の重臣たちでした。
北条義時(ほうじょうよしとき・1163~1224)
伊豆国田方郡(たがたぐん)北条(今の静岡県伊豆の国市)の在庁官人(国の役所の行政実務を担当する役人)を務める北条氏に生まれます。父は時政、姉には政子がいて、伊豆に流された源頼朝と政子が結ばれたことにより、頼朝の挙兵に協力し、鎌倉に入りました。頼朝が亡くなると、新しい鎌倉殿の源頼家を支える13人の重臣に選ばれます。北条氏はその後、梶原氏や比企氏などの有力御家人と敵対しますが、いずれも勝利を収めました。
2代目鎌倉殿・頼家が重病を患(わずら)うと、幼い源実朝を新しい鎌倉殿とし、祖父にあたる時政が政治の実権を握りますが、時政は、後妻・牧の方と鎌倉殿・実朝の廃位を企てたことなどにより、御家人たちの信頼を失って失脚しました。こうして時政に代わって姉・政子とともに幕府政治の主導権を握った義時は、その後、有力御家人の和田義盛との合戦にも勝利し、幕府内における北条氏の地位を確実なものとします。しかし、3代目鎌倉殿・実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺されたことをきっかけとして、幕府と朝廷の関係は悪化していきます。
承久3年(1221)、後鳥羽上皇は北条義時追討宣旨(せんじ)を全国に発し、兵を挙げました。この未曾有(みぞう)の事態に対し、義時はすぐさま京都に向けて大軍を送り込みました。このとき、尼将軍・政子の演説により御家人たちが結束を固めたのは、有名な話です。幕府の武力が朝廷を圧倒し、義時は幕府における最高権力者の地位を得ました。その3年後、62歳で亡くなると、その墓は頼朝の法華堂(ほっけどう)(墳墓堂)の隣に建てられました。
北条時政(ほうじょうときまさ・1138~1215)
北条義時や源頼朝の妻・政子の父で、頼朝が挙兵すると一族をあげて頼朝を支えました。平氏が滅亡し、頼朝とその弟・源義経が対立すると、時政は頼朝の代官として京都へ上り、政治的な交渉や京都の治安維持にあたりました。
頼朝が亡くなると、2代目の鎌倉殿・源頼家のもと、13人の重臣に選出されますが、頼家の妻・比企氏との間に確執(かくしつ)が生まれます。時政は比企能員を自邸に招き殺害、比企一族を滅亡させ、源実朝を鎌倉殿に立てました。
その後、有力御家人の畠山重忠・重保父子を誅殺(ちゅうさつ)し、後妻・牧の方との娘婿・平賀朝雅(ひらがともまさ)を鎌倉殿に立てようとしましたが、政子・義時と対立して失脚し、退いた伊豆で10年を過ごした後、亡くなりました。
安達盛長(あだちもりなが・1135~1200)
三河国(今の愛知県)を本拠とする小野田氏の分流の生まれであったともいわれますが、明らかではありません。藤九郎と称し、伊豆で流人生活を送る源頼朝を側近として支え、頼朝の挙兵に当たっては、相模国(今の神奈川県)や下総国(今の千葉県)の武士たちのもとを訪れ、参加を呼び掛けています。
無量寺谷(むりょうじがやつ)という谷の入り口付近にあったと考えられる盛長の邸宅には、頼朝も度々訪れていて、幕府成立後も頼朝に目を掛けられていたことがわかります。頼朝の死により出家し、新しい鎌倉殿である頼家を支える13人の重臣にも選ばれましたが、翌年、頼朝の後を追うかのように亡くなりました。
梶原景時(かじわらかげとき・?~1200)
鎌倉の梶原を本拠とした武士で、源頼朝が挙兵すると、頼朝と敵対する平家の勢力である大庭景親(おおばかげちか)側につきますが、石橋山の合戦で頼朝の危機を救い、以来頼朝の信頼を得て活躍します。平家追討の際には源義経のもとで侍大将として出陣し、朝廷との連絡・調整役もつとめました。
京都の貴族・徳大寺家に仕えていた経験から文化的な素養も高く、京都の貴族社会の人々とも交流があり、歌道や音曲(おんぎょく)にも通じていました。
しかし、頼朝の死後、源頼家に対して結城朝光(ゆうきともみつ)が異心を抱いていると讒言(ざんげん)したことなどにより、御家人らの弾劾(だんがい)で失脚し、翌年戦死しました。
比企能員(ひきよしかず・?~1203)
源頼朝の乳母・比企尼の養子で、この縁から頼朝の挙兵に従い信任を得ました。源頼家が誕生すると、能員の妻や、比企尼の娘が乳母に選ばれました。また頼家は、能員の娘・若狭局(わかさのつぼね)を妻としたことから、比企一族を頼りました。
一方で、頼家の祖父にあたる北条時政は、頼家が病で危篤となると、頼家の息子・一幡(いちまん)と頼家の弟・千幡(せんまん・のちの実朝)に頼家が就いていた役職などを分割譲与することを定めました。これを知った頼家は、能員に時政の追討を相談しましたが、時政は能員を自邸へ招き、殺害します。比企一族は、北条義時らの軍に攻め込まれ、自害しました。
なお、大変美しいと評判であった北条義時の妻・姫の前は、能員の姪にあたり、この乱を期に義時と離別したと考えられています。
三浦義澄(みうらよしずみ・1127~1200)
相模国の在庁官人で、三浦郡を本拠とした武士です。源頼朝が挙兵すると、義澄ら三浦一族は石橋山に向かいましたが、川の増水に阻まれ合流できず、三浦へ戻る途中、武蔵国(今の東京都、埼玉県及び神奈川県の一部)の武士・畠山重忠(のちに頼朝に臣従)に遭遇(そうぐう)し、合戦になります。さらに後日、平家の軍勢が三浦氏の本拠地・衣笠城(きぬがさじょう)に攻め入ると、老齢の義澄の父・義明は城に立てこもり、頼朝への加勢を託して自害しました。一方、義澄ら一族は海上へと逃れ、石橋山の合戦で安房国に敗走した頼朝を助けました。
頼朝が没し、源頼家が鎌倉殿を継ぐと、鎌倉殿を支える13人の重臣に選ばれますが、翌年死去しました。その後、義澄の子・義村は、北条氏に協調的でその勢力を強めていきました。
和田義盛(わだよしもり・1147~1213)
相模国の三浦郡和田を本拠地とする武士で、義盛は三浦義澄の甥にあたります。源頼朝の挙兵に義澄らとともに参加し、頼朝が安房国へ脱出した後は常に頼朝に近侍(きんじ)してその信頼を得、のちに御家人の統制を行う侍所(さむらいどころ)の別当(長官)となりました。
頼朝が死去し、義盛に替わって侍所別当に就いていた梶原景時が失脚すると、侍所別当に再任され、その地位を一層強固なものにしていきました。
しかし、一族の中に源実朝の廃位と北条氏の排斥(はいせき)を企てた者が居たことをきっかけに、2日間で数千人の死傷者を出すほど大きな市街戦・和田合戦が起こります。義盛は三浦義村の寝返りもあって敗れ、敗死しました。
足立遠元(あだちとおもと・生没年不詳)
武蔵国足立郡を本拠とする足立氏の出身で、源頼朝挙兵以前から、源氏の家人であったと考えられています。石橋山の合戦で敗走した源頼朝は、安房国・上総国・下総国(いずれも今の千葉県)をまわって武蔵国へと入ります。足立氏の本拠地である武蔵国内の武士たちは平家と強く結びついていましたが、遠元は事前に頼朝の命を受け、頼朝軍を迎えにあがりました。
また武士として活躍する一方で、京都との縁もあり、文筆に長けた人物であったと考えられます。娘の1人は京都の院の近臣に嫁ぎ、別の娘は畠山重忠や北条時房に嫁しています。文書の保管や政務の処理などを行う公文所(くもんじょ)が開設されると、中原親能・二階堂行政などと共に能力を発揮しました。
八田知家(はったともいえ・生没年不詳)
常陸国新治郡八田(今の茨城県筑西市八田)を本拠とする武士です。兄妹に平家や院に仕え京都で活躍していた宇都宮朝綱や、源頼朝の乳母をつとめた寒川尼(さむかわのあま)がいます。一族は京都との人脈を持ち、教養をそなえていたと考えられます。兄・朝綱に先んじて源頼朝のもとに馳せ参じ、重用されました。奥州藤原氏との戦いでは東海道大将軍の一人として活躍しています。
知家の屋敷は大倉幕府の南御門付近にあり、京都からの使者や鎌倉殿の滞在場所としても使われていました。知家の嫡男・知重は小田氏を名のり、常陸国の守護職や所領を持ち、鎌倉時代を通じて繁栄していきました。
中原親能(なかはらのちかよし・1143~1208)
出自については諸説ありますが、大江広元と同じく、儒学を専門とする京都の下級貴族・中原広季(ひろすえ)の養子であったとされています。幼少期を相模国で過ごし、同国の有力武士・波多野氏の婿になりました。そのため流人時代の源頼朝と知り合いで、頼朝の挙兵に際し京都の人々の中でいち早く駆けつけています。京都との人脈を持っていたことから、度々上洛し、鎌倉と京都の連絡役として活躍しました。
また親能の妻は頼朝と政子の娘・三幡(さんまん)の乳母で、親能自身も目をかけていました。しかし、三幡を天皇に入内させる計画が進められている中、頼朝が亡くなり、その半年後に三幡も14歳の若さで世を去ります。親能は出家し、自らの屋敷があった亀谷(かめがや)の堂の傍らに葬ったと伝わります。
大江広元(おおえのひろもと・1148~1225)
儒学を専門とする京都の下級貴族・中原広季の養子で、実父は大江維光(おおえのこれみつ)とされています。京都で朝廷の実務官人としてキャリアを重ねていましたが、源頼朝が挙兵すると、兄弟の中原親能の縁もあって、鎌倉に下向します。戦地には赴(おもむ)かず、京都との交渉や鎌倉幕府の整備に活躍し、政務処理を行う公文所や政所(まんどころ)が設置されると、その別当(長官)となりました。
頼朝の死後、源頼家にも側近として仕えますが、有力御家人らの対立からは一線を引く立場をとりました。続く源実朝の代になると、北条氏との協調関係を保ち、鎌倉殿の政治を補佐するとともに、和歌などの文化的な活動も支えました。承久の乱では、京都への進撃を強く主張し、幕府方の勝利に貢献しました。
三善康信(みよしやすのぶ・1140~1221)
京都の下級文人貴族・三善氏の生まれで、源頼朝挙兵以前は京都でキャリアを積みました。叔母が頼朝の乳母であった縁から、流人時代の頼朝に、頻繁に使者を送り京都の情勢を伝えていました。以仁王(もちひとおう)の敗走と源氏追討の命令が出ていることを頼朝に伝えたのも康信で、奥州に逃げるよう助言しています。
鎌倉に下向してからは、頼朝のもと、京都でのキャリアを生かし、文書作成などの実務や寺社関係の職務に携わります。さらに訴訟機関の問注所が設置されると、初代の執事(長官)に就任し、鎌倉幕府の組織の整備に貢献しました。承久の乱が起こると、京都へ進撃することを提案した大江広元を後押しし、勝利に貢献しました。
二階堂行政(にかいどうゆきまさ・生没年不詳)
二階堂氏は東海地方を中心に発展した工藤氏の分流です。外観が二階建ての堂にみえることから二階堂と呼ばれる堂が建つ永福寺の近くに邸宅を構えていたことから、二階堂氏を名乗りました。今も史跡永福寺跡の辺りには、二階堂という町名が残っています。行政と源頼朝は母方を同じ熱田大宮司家とし、その縁で頼朝が行政に声をかけ、鎌倉に下向したと考えられます。
鎌倉に下る以前は京都でキャリアを積んでおり、その経験から、鎌倉では公文所の設置や寺社の差配、幕府の財政などの業務に携わりました。政所が設置されると、長官の大江広元のもとで、実務能力を発揮していたと考えられます。頼朝の死後は、源頼家を支える13人に選ばれましたが、これを最後に『吾妻鏡』からは姿を消します。