鎌倉殿と13人の重臣<特設サイト>
鎌倉は2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台です。大河ドラマを楽しむために知っていただきたい鎌倉の情報等についてお知らせします。
鎌倉殿を支えた13人の重臣
治承4年(1180)、源頼朝は平家打倒の兵を挙げます。そのはじまりは、僅かな兵からなる「反乱軍」でしたが、勢力は瞬く間に膨れあがり、新たな武士の政権「鎌倉幕府」を創り上げていきました。
頼朝のもとには、東国武士をはじめとする源氏の家人、平家の治世に反意を持つ人々、頼朝の妻や母・乳母ゆかりの人々、京都から新天地を求めてやってきた貴族など、様々な人が集いました。彼らは自らの主の意を込めて、頼朝を「鎌倉殿(かまくらどの)」と呼びます。
頼朝の死後、息子頼家が鎌倉殿を継承しますが、その地位は決して安定したものではありませんでした。この鎌倉殿を支える存在として選ばれたのが、北条義時をはじめとする13人の重臣たちでした。
ゆかりの地を巡る
法華堂跡(北条義時墓)(鎌倉市西御門2-757)
▶ゆかりの人物:北条義時・三浦義澄・大江広元
北条義時の没後、供養のために建てられた墳墓堂(法華堂)の推定地です。平成17年(2005年)の発掘調査で堂跡の遺構が発見されました。堂は鎌倉時代後期には廃絶したとみられています。背後には、宝治合戦で敗れた三浦氏一族にゆかりがあると伝わり今も供養されている「やぐら」や、江戸時代に整備された大江広元等の墓所があります。
法華堂跡(源頼朝墓)(鎌倉市西御門2-687)
▶ゆかりの人物:源頼朝
源頼朝の墳墓堂(法華堂)跡です。頼朝の生前に持仏堂として建てられ、没後に法華堂と呼ばれるようになりました。現在頼朝墓のある平場がその跡地であると考えられています。武家の精神的な拠り所として鎌倉幕府滅亡後も維持されました。
来迎寺【西御門】(鎌倉市西御門1-11-1)
▶ゆかりの人物:源頼朝
江戸時代、源頼朝の法華堂に安置されていた地蔵菩薩・如意輪観音(にょいりんかんのん)・跋陀婆羅尊者(ばっだばらそんじゃ)の三躯等を祀ります。地蔵菩薩像はもと報恩寺の本尊で、後に太平寺・法華堂へと移されました。来迎寺の近隣にあった太平寺は、頼朝が自らを助けた池禅尼(いけのぜんに)の姪を開山として建立したと伝わり、その客殿(仏殿とも)は円覚寺に移され、舎利殿として現存します。
覚園寺 (鎌倉市二階堂421)
▶ゆかりの人物:北条義時
吾妻鏡に記された北条義時の危機を救った霊験(れいげん)をもつ戌神将を祀った大倉薬師堂が、覚園寺の前身とされています。現在の薬師堂に安置されている十二神将は室町時代のものですが、鎌倉北条氏の信仰を今日まで受け継ぐ寺院の一つです。
永福寺跡 (鎌倉市二階堂209)
▶ゆかりの人物:源頼朝・二階堂行政
源頼朝が奥州合戦で亡くなった人々を供養するために建立した寺院の跡です。発掘調査により、本堂・阿弥陀堂・薬師堂が複廊でつながり、池を臨む浄土式庭園をそなえた伽藍(がらん)であったとわかり、建物の基壇、池等が復元整備されています。本堂は二階堂とも呼ばれ、地名にもなっています。近辺に居を構えた藤原行政は二階堂氏を称しました。
明王院 (鎌倉市十二所32)
▶ゆかりの人物:九条頼経(三寅)
3代将軍源実朝が暗殺されると、北条政子や北条義時は頼朝の遠縁にあたる九条頼経を京都から鎌倉に迎え、4代将軍に擁立しました。当寺は頼経が御願寺として建立した寺院です。五体の明王を祀ることから五大堂とも称されました。近隣に大江広元を祀る大江稲荷があり、観音堂にはその御神体も安置されています。
鶴岡八幡宮 (鎌倉市雪ノ下2-1-31)
▶ゆかりの人物:源頼朝・源実朝・北条義時
源頼義が石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請(かんじょう)したことに由来します。治承4年(1180年)に源頼朝が現在地に遷(うつ)し、放生会(ほうじょうえ)や流鏑馬(やぶさめ)を奉納しました。以来幕府の公的行事の場となった鶴岡八幡宮は、源氏の氏神・幕府の守護社として御家人等の崇敬を集めました。幕府滅亡後も、後続する足利、後北条、徳川などから武門の守護神として信仰されました。
大倉幕府跡 (鎌倉市雪ノ下3丁目)
▶ゆかりの人物:13人全員
源頼朝が大倉に御所を構え、幕府を開いたことから、便宜上、大倉幕府といいます。頼朝の御所の周囲には、有力御家人の宿所や幕府の役所が置かれていました。江戸時代の地誌から推定して、現在の清泉小学校の敷地を中心とする地域にあったと考えられています。
無量寿院跡 (鎌倉市扇ガ谷1-5-1)
▶ゆかりの人物:安達盛長
鎌倉歴史文化交流館が建つ谷は無量寺谷(むりょうじがやつ)と呼ばれ、近辺には安達氏の菩提寺・無量寿院や甘縄の邸宅があったと考えられています。敷地内の発掘調査では鎌倉時代後期の池の跡や礎石が見つかり、安達氏に関係する遺構の可能性が指摘されています。
宝戒寺 (鎌倉市小町3-5-22)
▶ゆかりの人物:北条義時・歴代北条得宗家
北条義時が屋敷を構えて以来、代々北条得宗家(とくそうけ)の邸宅があった場所に建てられた寺院です。幕府滅亡後、北条一門の菩提を弔うために後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建立しました。
妙本寺 (鎌倉市大町1-15-1)
▶ゆかりの人物:比企能員・竹御所
妙本寺がある比企谷は、比企一族の屋敷跡とされます。境内には源頼家の息子・一幡(いちまん)の袖塚(そでづか)や比企一族の墓と伝えられる石塔など、一族の悲劇を伝える伝承が残ります。また、付近には頼家の娘で4代将軍九条頼経正室の竹御所の墓所があります。比企能員(よしかず)の子・能本(よしもと)が後に日蓮の弟子となり、日蓮と一族のために堂を建てたのが妙本寺の始まりといわれています。
来迎寺【材木座】 (鎌倉市材木座 2-9-19)
▶ ゆかりの人物:三浦一族
源頼朝が三浦義澄の父、三浦義明の冥福を祈って建立した能蔵寺があった場所とされています。本尊阿弥陀三尊像は三浦義明の守護仏と伝わります。敷地内には三浦一族や家臣の墓と伝わる五輪塔があります。
和田塚 (鎌倉市由比ガ浜2丁目)
▶ゆかりの人物:和田義盛
北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)の結果、和田一族敗死の屍(しかばね)を埋葬した塚として、伝承されています。和田塚に近い由比ガ浜一帯は、和田合戦の主戦場となった場所です。明治時代の道路工事で埴輪(はにわ)や多くの人骨が掘り出されました。
御霊神社 (鎌倉市坂ノ下4-9)
▶ゆかりの人物:梶原景時
梶原景時をはじめとする鎌倉党の祖・鎌倉権五郎景正(政)を祀っています。源頼朝が鎌倉に入る前からあったと伝わり、頼朝・義時の時代に存在した神社として重要です。梶原景時の本拠地である梶原にも、景正を祀る御霊神社があり、梶原景時と伝わる像が安置されています。
極楽寺 (鎌倉市極楽寺3-6-7)
ゆかりの人物:北条義時
北条義時と姫の前の息子・重時の山荘に造られた寺院で、重時の息子・長時らによって律院となりました。周辺はもと三浦氏の所領であったとする説もあり、後に重時がこの地を獲得し、山荘を建てました。
満福寺 (鎌倉市腰越2-4-8)
▶ゆかりの人物:源義経
寺伝では天平16年(744年)行基の創建で、承安年中(1171~75年)に高範が中興したといいます。当地は源頼朝の不興を被った源義経が逗留(とうりゅう)した地と伝えられています。義経逗留伝説は江戸時代の資料に見え、弁慶筆といわれる腰越状の写などが残ります。
建長寺 (鎌倉市山ノ内8)
▶ゆかりの人物:北条義時・梶原景時
北条義時以来、北条得宗家領となった山内荘に、5代執権北条時頼が建立した禅宗寺院です。山内荘は土肥(どひ)氏の所領でしたが、和田合戦に与したことで没収され、義時に与えられました。以後荘内には、北条氏によって常楽寺・建長寺・円覚寺など多くの寺院が造られました。建長寺三門では毎年7月15日に梶原景時の菩提供養のための施餓鬼会(せがきえ)が行われています。
円覚寺 (鎌倉市山ノ内409)
▶ゆかりの人物:北条義時・源実朝
北条義時以来、北条得宗家領となった山内荘に、8代執権北条時宗が建立した禅宗寺院です。国宝の舎利殿(しゃりでん)には、源実朝が宋から請来し、もと大慈寺に安置されていたという仏舎利(ぶっしゃり)が祀られています。鎌倉時代後期に建てられた舎利殿は火災で焼失。現在の舎利殿は、北条氏康が太平寺客殿(仏殿とも)を移築したものです。※舎利殿は、常時公開されていません。
常楽寺 (鎌倉市大船5-8-29)
▶ゆかりの人物:北条泰時・源義高・大姫
北条義時の息子・泰時が妻の母の供養のために建立した寺院で、泰時の年忌供養も行われています。また「粟船山(あわふねさん)常楽寺略記」は北条政子が娘大姫と許嫁の源(木曽)義高の菩提を弔うため当寺を創建したとし、裏山には源義高の首塚といわれる塚があります。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」鎌倉市推進協議会について
令和3年(2021年)2月3日に鎌倉市内の関係機関25団体で発足しました。現在27団体で活動しています。
本協議会では、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送を契機に、その舞台となる鎌倉市及び関係自治体の歴史・文化を全国に発信するとともに、混雑対策など地域の課題を踏まえた観光振興による地域の活性化を図ってまいります。
連載「鎌倉殿通信」
源頼朝が幕府を開いて以降、鎌倉が武家の都として隆盛したことは知っていても、鎌倉時代150年のさまざまな出来事について、実はよく知らないという人も多いのではないでしょうか。
登場人物ゆかりの地である鎌倉市では、その時代背景や人物の魅力をお伝えする取組みとして「広報かまくら」で「鎌倉殿通信」を連載しています。
鎌倉殿を支えた13人の重臣ガイドブック
鎌倉殿を支えた13人の重臣の人物像やゆかりの地を紹介するため、「鎌倉殿を支えた13人の重臣」ガイドブックを作成しました。印刷してご利用ください。
リンク
- YouTube「かまくらミューズちゃんねる」<外部リンク>
【鎌倉歴史文化交流館×鎌倉国宝館公式YouTubeチャンネル】
2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」について
ストーリー (NHK公式サイトより)
平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。だが流罪人・源頼朝と姉・政子の結婚をきっかけに、運命の歯車は回り始める。
1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻した。北条一門はこの無謀な大博打(ばくち)に乗った。
頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、遂には平家一門を打ち破る。
幕府を開き将軍となった頼朝。だがその絶頂のとき、彼は謎の死を遂げた。偉大な父を超えようともがき苦しむ二代将軍・頼家。 “飾り” に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿(すげ)替えられていく。
義時は、二人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵(かじ)を取る。源氏の正統が途絶えたとき、北条氏は幕府の頂点にいた。都では後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げる。武家政権の命運を賭け、義時は最後の決戦に挑んだ──。
登場人物(出演者) *2021年8月時点 (NHK公式サイトより)
- 北条 義時(小栗 旬)…執権政治を確立し、幕府の最高権力を握った男。
- 北条 時政(坂東 彌十郎)…北条氏を幕府の権力者にした初代執権。
- 比企 能員(佐藤 二朗)…頼朝の信任厚く、外戚として台頭。
- 梶原 景時(中村 獅童)…頭の切れるインテリ武士。
- 安達 盛長(野添 義弘)…伊豆流人時代から頼朝に仕えた側近。
- 和田 義盛(横田 栄司)…鎌倉幕府草創期の初代侍所別当。
- 三浦 義澄(佐藤 B作)…源氏譜代の家臣。三浦義村の父。
- 三善 康信(小林 隆)…鎌倉幕府の初代問注所執事。
- 大江 広元(栗原 英雄)…頼朝に招かれ、京から下った無二の側近。
- 中原 親能(未定)…京都と鎌倉を結んだ頼朝の知己。
- 二階堂 行政(未定)…初期鎌倉政権を支えた実務吏僚。
- 足立 遠元(未定)…武士出身の公文所寄人。
- 八田 知家(未定)…頼朝の父義朝の代から源氏を支えた。
[その他]
- 牧の方(宮沢 りえ)…義時の継母。
- 北条 宗時(片岡 愛之助)…義時の兄。
- 北条 政子(小池 栄子)…義時の姉。源頼朝の妻。
- 阿波局(宮澤 エマ)…義時の妹。
- 源 頼朝(大泉 洋)…鎌倉幕府初代将軍。
- 源 頼家(金子 大地)…頼朝と政子の嫡男。
- 大姫(南 沙良)…頼朝と政子の娘。
- 源 義経(菅田 将暉)…頼朝の異母弟で天才軍略家。
- 源 範頼(迫田 孝也)…頼朝の異母弟で義経・全成の異母兄。
- 阿野 全成(新納 慎也)…頼朝の異母弟で義経の同母兄。
- 源 行家(杉本 哲太)…頼朝らの叔父。
- 三浦 義村(山本 耕史)…義時の盟友。
- 道(堀内 敬子)…比企能員の妻。
- 比企尼(草笛 光子)…比企能員の義母。源頼朝を乳母として支える。
- 畠山 重忠(中川 大志)…若手御家人の筆頭。
- 土肥 実平(阿南 健治)…相模国の豪族。
- 伊東 祐親(浅野 和之)…義時の母方の祖父。伊豆国の豪族。
- 善児(梶原 善)…伊東祐親に仕える下人。
- 上総 広常(佐藤 浩市)…房総半島の豪族。
- 八重(新垣 結衣)…義時の初恋の相手。伊東祐親の娘。頼朝の最初の妻。
- 平 清盛(松平 健)…平家の総帥。
- 平 宗盛(小泉 孝太郎)…清盛の後継者。
- 後白河法皇(西田 敏行)…鳥羽天皇の第四皇子。
- 丹後局(鈴木 京香)…後白河法皇の側室。
- 平 知康( 矢柴 俊博)…後白河法皇の側近。
- 藤原 秀衡(田中 泯)…奥州藤原氏第3代当主。
- 武田 信義(八嶋 智人)…甲斐武田氏初代当主。
- 亀(江口 のりこ)…源頼朝の愛妾。
- 仁田 忠常(高岸 宏行・ティモンディ)…北条を支える武士。
- 木曽 義高(市川 染五郎)…大姫の婚約者。
- 木曽 義仲(青木 崇高)…頼朝の従弟。別名、木曽義仲。
- 巴御前(秋元 才加)…木曽義仲の愛妾。
- 牧 宗親(山崎 一)…牧の方の兄。
- 千葉 常胤(岡本 信人)…坂東武士の重鎮。
- 文覚(市川 猿之助)…真言宗の僧。
- 伊東 佑清(竹財 輝之助)…八重の兄。
- 工藤 祐経(坪倉 由幸・我が家)…伊東祐親を怨む伊豆の武士。
- 山内首藤 経俊(山口 馬木也)…母が頼朝の乳母。
- 大庭景親(國村 隼)…相模国の有力武士。