鎌倉市西御門2-757(Googleマップで開く<外部リンク>)
北条義時の没後、供養のために建てられた墳墓堂(法華堂)の推定地です。平成17年(2005年)の発掘調査で堂跡の遺構が発見されました。堂は鎌倉時代後期には廃絶したとみられています。背後には、宝治合戦で敗れた三浦氏一族にゆかりがあると伝わり今も供養されている「やぐら」や、江戸時代以降に整備された大江広元等の墓所があります。
北条 義時 |
三浦 義澄 |
大江 広元 |
鎌倉市西御門2-687(Googleマップで開く<外部リンク>)
源頼朝の墳墓堂(法華堂)跡です。頼朝の生前に持仏堂として建てられ、没後に法華堂と呼ばれるようになりました。現在頼朝墓のある平場がその跡地であると考えられています。武家の精神的な拠り所として鎌倉幕府滅亡後も維持されました。
源 頼朝 |
鎌倉市西御門1-11-1(Googleマップで開く<外部リンク>)
江戸時代、源頼朝の法華堂に安置されていた地蔵菩薩・如意輪観音(にょいりんかんのん)・跋陀婆羅尊者(ばっだばらそんじゃ)の三躯等を祀ります。地蔵菩薩像はもと報恩寺の本尊で、後に太平寺・法華堂へと移されました。来迎寺の近隣にあった太平寺は、頼朝が自らを助けた池禅尼(いけのぜんに)の姪を開山として建立したと伝わり、その客殿(仏殿とも)は円覚寺に移され、舎利殿として現存します。
源 頼朝 |
鎌倉市雪ノ下2-1-31(Googleマップで開く<外部リンク>)
源頼義が石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請(かんじょう)したことに由来します。治承4年(1180年)に源頼朝が現在地に遷(うつ)し、放生会(ほうじょうえ)や流鏑馬(やぶさめ)を奉納しました。以来幕府の公的行事の場となった鶴岡八幡宮は、源氏の氏神・幕府の守護社として御家人等の崇敬を集めました。幕府滅亡後も、後続する足利、後北条、徳川などから武門の守護神として信仰されました。
源 頼朝 |
源 実朝 | 北条 義時 |
鎌倉市雪ノ下3丁目(Googleマップで開く<外部リンク>)
源頼朝が大倉に御所を構え、幕府を開いたことから、便宜上、大倉幕府といいます。頼朝の御所の周囲には、有力御家人の宿所や幕府の役所が置かれていました。江戸時代の地誌から推定して、現在の清泉小学校の敷地を中心とする地域にあったと考えられています。
北条 義時 |
北条 時政 |
安達 盛長 |
梶原 景時 |
比企 能員 |
三浦 義澄 |
和田 義盛 |
足立 遠元 |
八田 知家 |
中原 親能 |
大江 広元 |
三善 康信 |
二階堂 行政 |
源 頼朝 |
鎌倉市扇ガ谷1-5-1(Googleマップで開く<外部リンク>)
鎌倉歴史文化交流館が建つ谷は無量寺谷(むりょうじがやつ)と呼ばれ、近辺には安達氏の菩提寺・無量寿院や甘縄の邸宅があったと考えられています。敷地内の発掘調査では鎌倉時代後期の池の跡や礎石が見つかり、安達氏に関係する遺構の可能性が指摘されています。
安達 盛長 |
鎌倉市小町3-5-22(Googleマップで開く<外部リンク>)
北条義時が屋敷を構えて以来、代々北条得宗家(とくそうけ)の邸宅があった場所に建てられた寺院です。幕府滅亡後、北条一門の菩提を弔うために後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建立しました。
歴代北条得宗家 |
鎌倉市扇ガ谷1-17-7(Googleマップで開く<外部リンク>)
当寺の一帯には源頼朝の父・義朝の館があったといわれ、その後、北条政子が明庵栄西を開山として伽藍を建立しました(現在、拝観は中門までです)。裏山の墓地にあるやぐらには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
源 頼朝 |
北条 政子 |
源 実朝 |