伊豆国田方郡(たがたぐん)北条(今の静岡県伊豆の国市)の在庁官人(国の役所の行政実務を担当する役人)を務める北条氏に生まれます。父は時政、姉には政子がいて、伊豆に流された源頼朝と政子が結ばれたことにより、頼朝の挙兵に協力し、鎌倉に入りました。
頼朝が亡くなると、新しい鎌倉殿の源頼家を支える13人の重臣に選ばれます。北条氏はその後、梶原氏や比企氏などの有力御家人と敵対しますが、いずれも勝利を収めました。
2代目鎌倉殿・頼家が重病を患(わずら)うと、幼い源実朝を新しい鎌倉殿とし、祖父にあたる時政が政治の実権を握りますが、時政は、後妻・牧の方と鎌倉殿・実朝の廃位を企てたことなどにより、御家人たちの信頼を失って失脚しました。こうして時政に代わって姉・政子とともに幕府政治の主導権を握った義時は、その後、有力御家人の和田義盛との合戦にも勝利し、幕府内における北条氏の地位を確実なものとします。しかし、3代目鎌倉殿・実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺されたことをきっかけとして、幕府と朝廷の関係は悪化していきます。
承久3年(1221)、後鳥羽上皇は北条義時追討宣旨(せんじ)を全国に発し、兵を挙げました。この未曾有(みぞう)の事態に対し、義時はすぐさま京都に向けて大軍を送り込みました。このとき、尼将軍・政子の演説により御家人たちが結束を固めたのは、有名な話です。幕府の武力が朝廷を圧倒し、義時は幕府における最高権力者の地位を得ました。その3年後、62歳で亡くなると、その墓は頼朝の法華堂(ほっけどう)(墳墓堂)の隣に建てられました。
法華堂跡(北条義時墓)
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覚園寺
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鶴岡八幡宮
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大倉幕府跡
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宝戒寺
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極楽寺
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建長寺
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円覚寺
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比企 能員 |
三浦 義澄 |
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足立 遠元 |
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三善 康信 |
二階堂 行政 |