出自については諸説ありますが、大江広元と同じく、儒学を専門とする京都の下級貴族・中原広季(ひろすえ)の養子であったとされています。幼少期を相模国で過ごし、同国の有力武士・波多野氏の婿になりました。そのため流人時代の源頼朝と知り合いで、頼朝の挙兵に際し京都の人々の中でいち早く駆けつけています。京都との人脈を持っていたことから、度々上洛し、鎌倉と京都の連絡役として活躍しました。また親能の妻は頼朝と政子の娘・三幡(さんまん)の乳母で、親能自身も目をかけていました。しかし、三幡を天皇に入内させる計画が進められている中、頼朝が亡くなり、その半年後に三幡も14歳の若さで世を去ります。親能は出家し、自らの屋敷があった亀谷の堂の傍らに葬ったと伝わります。
大倉幕府跡
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北条 義時 |
安達 盛長 |
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梶原 景時 |
比企 能員 |
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和田 義盛 |
足立 遠元 |
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三善 康信 |
二階堂 行政 |